ベイビーフェイスを育んだもの~ベイビーフェイス、20年の軌跡~

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ベイビーフェイスを育んだもの

プロデューサーとして次々とヒットを放ち、あらゆるシンガーたちからプロデュースの依頼が殺到する男。
自らがマイクを持ち、ラヴ・ソングを歌えば、百万人の人々をその歌声でうっとりさせる男。
おしゃれなデザイナーズ・ファッションに身を包み、ファッション雑誌から飛び出たかのようなモデルを思わせる男。
それでもスター然としたえらそうなところをまったく垣間見せない男。

それがベイビーフェイスだ。

そのベイビーフェイスがレーベルを移籍しての新作『フェイス・トゥ・フェイス』発表を機に、プロモーションのために来日した。さらに、2001年10月には7年ぶりのライヴ・コンサートも予定されている。

スーパースターとなったベイビーフェイスの今日までの道のりは平坦ではなかった。

彼は過去20年、何を学んできたのか。
そして、下積みの彼を支えてきたものは何だったのか。

ベイビーフェイス、20年の軌跡

来日公演に先駆けての
ショーケースライヴ

Babyface Show Case Live
8/22/2001 @ Shibuya AX

1 There She Goes
2 Outside In Inside Out
3 What If
4 For The Cool In You
5 Whip Appeal
6 Change The World
7 When Can I See You



8月22日、渋谷AX。現R&Bシーンにおける最重要人物、ベイビーフェイスが、10月~11月に行なわれる来日公演に先駆けてショウケース・ライヴを敢行!

このライヴ、完全招待制のスペシャルなものだったが、会場は身動きがとれないほどギッシリ。このアーティストが今、どれだけ日本でも熱い注目を浴びているのかを痛感させられた。ちなみに会場には、今流行り(!?)の大きめサングラスをして颯爽と歩くイキなお姉様も多数見受けられ、ブラック系アーティストのライヴではお馴染みの風景ながら、う~ん、さすがはR&B。やっぱりロックとは違うわなどと、勝手に納得。

くしくもこの日は、ベイビーフェイスのレーベル移籍第1弾となるオリジナル・ニュー・アルバム『face 2 face』のリリース日。「There She Goes」「Outside In/Inside Out」など同アルバムからのナンバーを中心に、計7曲がパフォーマンスされた。それにしても、やっぱり歌がウマい。そして何とまあ声が甘くてセクシーだこと……。オーディエンスは時に熱狂のレスポンスを返し、時にウットリと音に身を任せる。

圧巻は、充分にフロアが暖まったところでプレイされた「Change The World」だ。誰もが期待していたこのナンバーを大詰めに持ってくるあたり、さすがベイビーフェイス、ツボは外しません。で、何が圧巻だったかと言うと、MCで思い切り煽っておきながら、歌詞をすっかり忘れていたこと! が、これもご愛嬌。照れた表情のベイビーフェイスもまた絵になっちゃうし、逆に会場はフレンドリーな空気に包まれ、合唱が起きたりして余計に盛り上がっちゃいました。

ちょっとバンドのメンバー紹介の時間が長過ぎて、あと3曲はできたぞ、などと良からぬことを考えてしまったけど、それだけ彼が自分のバンドを愛しているということだろう。ベイビーフェイスが今、とてもハッピーで充実した状態にあることを実感した1夜であった。本公演も、期待して間違いなし!

文●鈴木宏和


最新オリジナルALBUM

『face 2 face』

BMGファンハウス BVCA-21085
2001年8月22日発売 2,548(tax in)

1 Baby's Mama Featuring Snoop Dogg
2 There She Goes
3 U Should Know
4 Lover And Friend
5 How Can U Be Down
6 Still In Love With U
7 Don't Take It Too Personal
8 Stressed Out
9 Work It Out
10 Wish U Was My Girl
11 I Keep Callin'
12 With Him
13 Just My Imagination(Running Away With Me)(Babyface & Gwyneth Paltrow)



JOMO PRESENTS
BABYFACE
FACE 2 FACE JAPAN TOUR

2001年10月22日 大阪国際会議場
2001年10月23日 大阪国際会議場
2001年10月26日 日本武道館
2001年10月29日 国際フォーラム・ホールA
2001年10月30日 名古屋センチュリーホール
2001年10月31日 ZEPP FUKUOKA
2001年11月02日 ZEPP FUKUOKA

【問】スリーベース 03-5367-1129
ルーツ

アメリカ中西部、インディアナ州インディアナポリス。'50年代のインディアナポリスは、静かで平和な典型的なアメリカの一地方都市だった。

ベイビーフェイスこと本名ケネス・エドモンズは、そのインディアナポリスに6人兄弟の5番めとして'58年4月10日に生まれた('59年生まれはまちがい)。6人兄弟の5番目ということで、ケニーはいつも兄にくっついて、兄たちがやることを見よう見まねで真似ていた。

子供の頃、兄たちはコーラス・グループを作っていた。といっても、せいぜい家の中でみんなが一緒に歌を歌う程度のものだった。ケニーももちろん、その仲間に入りたがったが、兄たちはケニーがまだ子供だということでなかなかいれてはくれなかった。

ところが、'69年のある時、状況は一変した。全米の音楽シーンに11歳の子供がリードを取るキッズ・グループがセンセーショナルに登場したのだ。ジャクソン・ファイヴだ。リード・シンガーは、くしくもケニーと同じ年のマイケル・ジャクソン

兄たちはジャクソン・ファイヴの「アイ・ウォント・ユー・バック(帰って欲しいの)」をやるために、5男のケニーにリードを歌わせることにした。ケニーは晴れて、兄たちのグループにいれてもらえることになったのである。彼らは最初は、家のリヴィングルームで歌っていたが、徐々に学校のタレント・ショウなどで歌い始める。

ソフトスポークンの彼は振り返る。
僕が生涯見た中で、もっとも思い出に残っているショウは11歳頃に見たジャクソン・ファイヴのショウだった。生まれて初めて見たショウだった。あれが僕にもっとも影響を与えたんだ。彼らのショウを見て、『僕もこれをやりたい。何か音楽をやりたい』と思ったわけだからね

ケニー少年は、同じ年のマイケルがステージを所狭しと動き回り踊るのを見て、あこがれた。

'77年ミシガン州デトロイト。ケネス・エドモンズ、19歳。彼はハイスクール卒業後、デトロイトを本拠にしたファンク・グループ、マンチャイルドに参加。このバンド自体は、'74年に結成されているが、ケニーは'77年頃から参加した。

彼らは、'77年9月、シカゴの有力プロデューサー、カール・デイヴィスの持つシャイ・サウンド・レコードからアルバム『パワー・アンド・ラブ』(UA/CHI SOUND 765) でデビュー。ここでは、ジャケットに若きケニー・エドモンズが他のメンバー同様大きなアフロヘアーで写っている。彼はギタリストとして参加。しかも、ここで2曲で作曲、1曲でリードを取っている。このバンドは当時はやりの大型グループで、それほどの個性はなかったが、ジャズとロックの要素も入れた音楽性を持っていた。デビュー作から1曲だけシングルがチャートに入るがほとんどヒットはしていない。このバンドは'78年4月、もう1枚『フィール・ザ・ファフ』(UA/CHI SOUND 862) を発表する。しかし、バンドやこのアルバムは売れずにグループは自然解散した。

僕はそのマンチャイルドの2枚のアルバムを持参して彼に見せた。
その2枚のジャケットを懐かしそうに見ながら彼はこう振り返った。

これは、ハイスクールの直後だった。19歳位だったかな。僕にとっての始まりだった。このレコードでは、僕は、これと、これの2曲を書いている。(といってその曲名を指差す) すべての始まりで、勉強の時期だったね

驚いたことに、彼はジャケットの曲名を見ただけで、自分が書いた曲を思いだしていた。そこには、作者クレジットはなかったにもかかわらずだ。その2曲のうち、1曲は「ワン・テンダー・モーメント」というなかなかいいバラードだ。彼はメロディーを憶えているだろうか。

もちろん、憶えているよ。この曲は、僕がどこからやって来たかを表していると思う。つまり、ルーツだ。多くのロマンスやら何やらを示す曲で、これ以来それほど(曲を書く技術が)変化しているとも思えないなあ(笑)。もちろん、レコーディングの質は違っているけれどね。曲を書くヒントは、この頃から変わっていないね

ミシガン時代を彼はこう振り返る。

この頃は、僕たちバンドにとって厳しい時期でね。アルバムが(2枚)出た後、レコード会社と契約が切れてしまって。いってみれば、僕たちの“下積みの時代”というわけだ。その後、ミシガンを本拠とする別のバンドに入ったんだ。そのバンドは、ホリデイ・インなんかのラウンジでトップ40曲をプレイするバンドだった。まあ、それも経験でよかったよ。お金にもなったしね。それにトップ40をプレイしたのは、とても価値があったよ。というのは、そのことによって、ヒット曲とは何か、ヒット曲のコード進行とか、構成など、コマーシャルな音楽がどのようにできているかを知ることができたからなんだ。基本を学んだ、というだけでなく、ベストな時期だったとも言えるよ。非常に重要な、勉強の時期ということだね

彼がこの頃学んだこと、そして得た教訓について話してくれた。

この頃もっとも学んだことは何かと言えば、結局は、ミュージック(音楽)を学んだ、ということに尽きると思う。そして、あらゆる勝負の負け方を学んだよ(笑)。そして、いかにどんな理不尽なことが起こっても怒らないようにするかを学んだ

「ベイビーフェイス」と呼ばれて

'81年オハイオ州シンシナティー。ケネス・エドモンズ、23歳。ここで4人組のバンドが結成された。それがディールという名のバンドで、ケニーは、友人のミッドナイト・スターのジェフ・クーパーに紹介されメンバーとなる。

ある時、ライヴで一緒になったブッチーズ・ラバーズ・バンドのブーツィ・コリンズから彼はこう言われた。

お前はベイビーフェイス(童顔)みたいだな

以来、ケニーは「ベイビーフェイス」のニックネームで呼ばれるようになる。ディールは'83年11月、アルバム『ストリート・ビート』でソーラーからデビュー。さらに、'85年5月『マテリアル・シングス』を発表。'86年には、彼らはより大きな成功を求めて本拠をロスアンジェルスに移し、この頃からベイビーフェイスは、ディールのLAことアントニオ・リードと組んで「LA&ベイビーフェイス」として、レーベルメイトの作品をプロデュースするようになる。

ベイビーフェイスは、'86年11月、グループ活動とは別にソロ・アルバム『ラヴァーズ』を発表。ここには、スタイリスティックスのヒットのカヴァー「誓い」などが収められ、大ヒットには至らなかったものの、中ヒットにはなり、ソロ・アーティスト、ソロ・シンガー、また作曲家として注目されるようになる。

一方、プロデューサーとして彼らは手始めにダイナスティ、キャリー・ルーカスなどの作品をプロデュースし、これらは没になるが、ソーラー・レコードの社長、ディック・グリフィーはそれでも、彼らにプロデュースの機会を与え、彼らはウィスパーズに「ロック・ステディー」を提供する。これは、'87年4月から大ヒットし、ポップ部門でもトップ10まで行き、彼らは一躍ホットなプロデューサーとなり注目され始める。さらに、ディールとして'87年8月『アイズ・オブ・ア・ストレンジャー』を発表。特に、ここからは「トゥ・オケイジョンズ」のスローがディールとしてポップ部門でも大ヒット。彼らの名声は一挙に高まる。

ベイビーフェイスもこう振り返る。

『ロック・ステディー』が最大のターニング・ポイントだった。あれ以来、他のアーティストのプロデュースの依頼が殺到するようになった」

そして、これ以後、彼らはクライマックス、シャラマー、ボビー・ブラウンポーラ・アブドゥル、ペブルス、キャリン・ホワイト、ザ・ボーイズ、シーナ・イーストン、ジャクソンズ、アフター7、ホイットニー・ヒューストントニ・ブラクストンボーイズ・トゥ・メンと、次々とプロデューサーとしてのヒット・リストをふやし続け、スーパー・プロデューサーとなっていく。

スーパー・プロデューサー、ソングライター

彼はこれほどまでのスーパースターになりながらも、謙虚さを備える。もの静かな語り口で彼が言う。

プロデューサーとして思うのは、これだけ多くのヒットが生まれても、そのヒットというのは、3割が楽曲の良さで、残りの7割はラック(幸運)だということだ。それに、アーティストの希望を全部聞いていたら、プロデューサーは仕事にならない。例えば、ジョニー・ギルは最初「マイ・マイ・マイ」が気に入らなくて、やりたくないと言った。「ロック・ウイッチャ」も最初は彼に渡したのに気に入らなかった。一方、ボビー・ブラウンは「ロニー」や「エヴリ・リトル・ステップ」も気に入らなかった

結局「ロック・ウイッチャ」はボビー・ブラウンに回され、彼のヒットになり、「マイ・マイ・マイ」は、レコード会社の説得が効を奏して、ジョニーのヒットになった。

ベイビーフェイスの作品には、時に非常に写実的なものがある。そんな例のひとつに'97年のベイビーフェイスのアルバム『ザ・デイ』に収められた「シンプル・デイズ」という曲がある。この楽曲は彼の自伝的作品で、歌詞は「
アメリカ中西部の北の街に生まれて、3ベッドルームの部屋に家族9人で住んでいた」とある。ベイビーフェイスは、アメリカ中西部インディアナ州の生まれ。だが9人というところがひっかかったのだ。ベイビーフェイスは前述の通り6人兄弟の5番目。両親を入れても8人にしかならない。僕は尋ねた。「9人目とは誰?」

ははは、犬だよ。飼っていた犬なんだ

彼はそう答えた。なるほど、納得だ。彼の表現へのこだわりを感じた一幕だった。

ベイビーフェイスが感動した日

そのアルバム・タイトル曲ともなっている「ザ・デイ」という作品を僕は気に入っていた。ピアノをイントロに持ってきたしっとりとしたバラードだ。これは、ベイビーフェイスが妻トレイシーから、懐妊を知らされた日の感動を描いた作品だ。

それは、12月の終りのことだった。君のおかげで、僕は父親になれる」という喜びを、あたかも妻のために歌うかのようにささやく。シンプルながら、たんたんとした中にも、情感あふれる小曲だ。この12月とは、'95年12月のことだ。彼は言う。

そのときの気持ちというのは、本当に不思議なものだ。いままで、経験したことがないはずの感情なのに、何か、そうしたことを既に知っているかのような気さえしてしまう。妻のトレイシーも、母になるとはどういうことかまったくわかっていなかった。でも、どうすればいいか、どう対処すればいいか、知っているんだ。きっと、何か母性的な知識のようなものなんだろうね

それから10カ月後の'96年10月28日。ロスアンジェルスの病院、ベイビーフェイス、38歳。その日、ベイビーフェイスは『ザ・デイ』に収録されているシャラマーのヒット曲のカヴァー「フォー・ザ・ラヴァー・イン・ユー」のビデオを撮影することになっていた。

朝5時半頃、トレイシーに陣痛が始まった。そこで、彼は当時のマネージャーのベニー・メディーナに電話をして「
今日は撮影に行けない」と伝え、病院についていった。実は、メディーナは、このビデオをCD発売などと関連して30日までに収録しなければならなかったが、トレイシーの様子などを考え、撮影を2日ほど早めていた。しかし、結局早まったのは、トレイシーの方だった。

ベイビーフェイスとトレイシーが病院に到着したのは、昼前のこと。そして、それから2時間もしないうちに、ベイビーは、無事この世に誕生した。

(彼が生まれたことは)実に素晴らしい気持ちだった。まちがいなく僕の人生の中のハイライトの一つだよ。父親になるということは、ある意味で、究極の気持ちのような気がする。人生に何かしらの意味が与えられたようなものだ。人生の目的というか。それまでは、父親になることを頭では理解できたかもしれないが、実際にそれを経験すると、本当に体でそれを感じることができる

ベイビーフェイスの持つスタジオの名は、「ブランドンズ・ウエイ・レコーディング」。最新の設備をそろえたスタジオだ。ホイットニー・ヒューストンの『天使の贈り物』のサウンドトラックや、『ザ・デイ』の一部を録音した。そして、もちろんその名前は、彼の息子の名から取ったものだ。

7年ぶりのライヴ

2001年10月のライヴは、'94年11月のライヴ以来7年ぶりのものとなる。ベイビーフェイスは、日本公演の後、35市におよぶ全米ツアーを開始する。

いつも、ステージにあがるまではとてもナーヴァスになる。ちゃんと歌えるか。歌詞を憶えているか、とか。でも、ひとたびステージに上がって、1曲目を歌い始めれば、大丈夫だ

2001年8月東京、ベイビーフェイス、43歳。今回のプロモーション来日時に、ベイビーフェイスは渋谷のAXでショウケース・ライヴを行なった。その中で、彼は「チェンジ・ザ・ワールド」を歌った。いや、歌おうとした。イントロが始まり、歌詞に入るところになった。だが、ベイビーフェイスは、なぜか歌詞を歌い出さなかった。そして一言言った。

歌詞、忘れた

しばらくして、サビのところになって、やっと彼は歌詞を思いだした。そして、後半、彼はこう歌った。

チェンジ・ザ・ワード(歌詞を変えたんだ)

ライヴが終わった後、彼の現在のマネージャーであるラモン・ハーヴェーと話をする機会があった。「歌詞を忘れるなんてことあるんですか」

「ははは、確かに今まで見たことないな。彼は今日は、ものすごくしゃべり過ぎたんだよ。ステージでたくさんしゃべってたから、肝心の歌詞を忘れたんだろう」

ライヴでは新作からの曲も歌った。その新作『フェイス・トゥ・フェイス』のために80曲を録音したという。デモのレベルではなく、完成したレベルの作品群だ。そして、発売されたCDには13曲が収録された。では残りの67曲はどうなるのか。

ベイビーフェイスが言う。「
うーん、とっておいて、他のシンガーから何か要請があったら、だしたりするかもしれないな

残りの作品にもきっと宝の山が埋もれているに違いない。

知り尽くした勝負の負け方と勝ち方

ベイビーフェイスが20年前に得た教訓は、今日の成功に結び付いている。

つまり、下積み時代にはあらゆる勝負の負け方を学んだということだ。確かに僕が自分の人生で成し遂げたことはアメリカン・ドリームなのだろうね。でも、僕が何をやったから、それが結果としてアメリカン・ドリームになったというようなことは言えない。つまり、様々なことがそれぞれのタイミングで起こり、そして、アメリカン・ドリームに結び付いた。一つだけの要因で、そうなったわけではないからね。これをやったからうまくいったとか、あれをやったからうまくいったなどということはわからないよ。いかなるフォーミュラ(形)もないと思う。それぞれの人のそれぞれの成功に、それぞれの道がある。決まりきったものはないということだ。一つだけ言えるのは、僕はとてもラッキーで、神に祝福されていた、ということだけだよ。僕がこころがけたことは、成功が訪れたときのために心の準備をしておくことくらいだった

マイケル・ジャクソンや、モータウンのヒット曲を聴いて育ち、音楽の世界に進もうと夢を抱いたベイビーフェイスは、20年の歳月を経て、自らスーパースターの座についた。彼は、かつて自分が描いた夢を、今、若きミュージシャンたちに与えている。

彼は、下積み時代にあらゆる勝負の負け方を知り、過去十年で、あらゆる勝負の勝ち方を知った。負けたときの悔しさを知れば知るほど、勝ったときのうれしさは倍増する。そして、今、彼は、その何層にも重ねられた勝利の味の素晴らしさを存分にかみしめている。

彼の成功は一夜にしてなったわけではない。彼は静かにしみじみとまとめた。

もちろん、長かったよ。一夜にして起こったわけではないからね。その間には、実に多くのことが起こった。いいことも、悪いことも。契約が自分にとって不利だったり、周囲の人間が金を持っていったり。それでも、僕はとてもシャイだったので、音楽しかなかったんだ。音楽は、僕の声だったんだよ。つまり、音楽がなければ僕は他のだれにも話しかけられなかった。曲を書き、歌い、そして少しだけ人気が出て、やっと相手のほうから話しかけてくるようになった。僕からは話しかけられないのにね。音楽はそういう意味で、僕という人間の扉を大きく開いてくれたんだ

吉岡正晴

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