【インタビュー】お風呂でピーナッツ、2nd EPの多様で自由な音楽性の理由「いい規模感で聴いてもらいたい」

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■メッセージは同じかもしれないけど
■いろんな面白い出し方を技術を使って


──あとはやっぱり、タイトルにもなった「電気」というワードですよね。曲のタイトルとしてはありそうでなかった、ものすごいインパクト。

樋口:デモの時点で「電気」というタイトルだった気がします。それはすごく納得で、ギターの動き方とか聴いていると“まさに!”と思ったので。毎回そうなんですけど、音から得るイメージ像がすごく似てる感じがするんですよ、若林くんと。だから分業でやっていても、あんまり苦に思ったことがなくて。

──若林さん、最初から「電気」だったんですね。

若林:そうなんですよ。イメージを固めたくない時は「デモ3」とかで送るんですけど、もうイメージはあったので、「電気」とだけ入れて送りました。なぜ「電気」とつけたのかは、音のイメージ感だけなんですけど、何かをすごく感じたんですよね。それで歌詞が返ってきて「そうなったのか」って、ちょっと角度は違うけどハマった感覚があって、繋がったと思いました。

──そもそもエレクトリックギターが電気ですよね。

若林:そう、本当に最初はそのくらいのイメージだったかもしれない(笑)。直感で“電気っぽいな”と思った、それだけなんですよね。そのイメージはデモからあんまり変わってなくて、そこにアレンジが乗って、音像がはっきりした感じです。


──ちょっと横へ逸れて、さっきの樋口さんの「歌詞に情景がすぐ見えるような単語使いをしてみよう」という言葉を、深堀りしてみたいんですけども。このEPに入っている1年ちょっと曲の中で、歌詞の書き方が変わってきたとか、いろんな手法を試してきたとか、そういう思いはありますか。

樋口:ありますね。言葉の選び方が変わってきていると思います。私は2〜3年前ぐらいまではあんまり歌詞に共感するという感覚を覚えたことがなくて。でもこの2〜3年でいろいろあって、急に聴き方が変わったというか、ただ音が好きで聴いていた曲の歌詞の意味が、“こういうことだったのかもしれない”みたいな感じで、自分の中で結びつくことが多くなったんです。それ以前は、わかりやすい表現や単語選びを避ける傾向があったんですよね。そのスタイルもいまだに好きではあるんですけど、このEP制作を始めたぐらいの時にちょうど、ある意味大衆化されたというか、わかりやすい具体例や情景描写が音に乗ることが、ポップスの大きな魅力の一つだなと思うようになったんですね。

──はい。なるほど。

樋口:そこで、作曲者や作詞者が思い浮かべる状況や情景が、聴いてくれている人たちに100パーセント同じように伝わるわけではないんだけど。でもたとえば“首都高を走る”という情景一つとっても、個人の経験だったり、見てきた作品だったりに照らし合わせて、それぞれ違うイメージが成り立っていくのがすごく面白いなと思っていて。それができやすいのは、もうちょっと開けた、わかりやすい単語選びにあるのかな?と思って、最近はポップスをすごい聴いているし、作ってみたいと思っていますね。

──面白いですね。書き方の変化が聴き方に影響を与えて、それがまた書き方に影響を与えて。

樋口:面白いです。昔ハマってた曲を聴いても、聴こえ方というか、歌詞とのリンクの仕方とか、見え方が違うんですよね。

若林:今、話を聞きながら思ったんですけど、可弥子の曲作りは確かにめっちゃ変わりましたね。1作目はやっぱり恥ずかしさというか、意図的にちょっと距離感のあるものを書いていた感覚があったんですけど、最近は可弥子の生活とか、わかりやすさが出てきて、すごく面白いなと思ってます。僕だったら絶対書けないなという歌詞が返ってくることが多いんですよね。「電気」だったら“ビリビリ痛い”とか、“予備のバッテリーなんて持ち合わせていない”とか、わかりやすいんだけど、出てこない表現ってあるじゃないですか。それがここ最近の作品の可弥子の歌詞で、面白いなと思っているところかな。「後夜」だったら“ロックミュージック”とか、ああいう単語も僕からは出てこないし、たぶん1作目のEPの時の可弥子からも出てきてなくて、感覚が変わったんだなって、今の話を聞きながら思いましたね。


──そこは本当に今回のEPの聴きどころで、1st EP『スーパー銭湯』と比べても一番変わったところだと思います。若林さんも「擬態」を出した時に、本を読んでそこからヒントを得て、という話をしてくれましたけど、それも今までなかったことだったし。若林さんの中にも、いろんな変化があるのかなとか思ったりします。

若林:そうですね。1作目は曲を頑張って完成させるのがゴールだったというか、そこまでの必死さでしかなかったんですけど、最近はちょっと余裕があるというか。“こうやったら曲はできるよね”いうものがあって、その中にどう遊び入れるか?を考えられるようになったかなと思っているんですよね。“このメッセージを伝えたいから、これを入れるんだ”みたいなことに加えて、言葉遊びとか、音との関係とか、そういうことも面白いなと思うようになってきた感じですね。「擬態」も、韻を踏むことが面白いなと思ったし、歌詞を歌詞として考えられるようになったのかもしれないです。内省して言葉を紡ぐというよりは、“こうすると面白いかな”みたいな感じなんですよね、今は。

──そこで、我々も一緒に成長している感じがするんですよね。こういうインタビューで、その時の心境や手法を語ることで、積み重ねていっていることをすごく感じます。

若林:曲作りについても、自分の根幹にあるメッセージみたいなものって、結局一人の人生だから、出てくるものは限られてるなと思っていて。いろんなメッセージに見えるけど、根っこの部分で考えていることは一緒で、それがいろんな側面で出るからいろんな曲になっている、みたいな感覚ですかね。持っているメッセージは同じかもしれないけど、いろんな面白い出し方を、技術を使って出していく、そういう感覚かもしれない。だから、技みたいなものがだんだん乗っかってきたりとか。

──元になるものは変わらないけど。

若林:そう。そこを変えようとして、たとえば旅に出るとかはちょっと違うなと思っていて(笑)。違う経験を生みたいから、1ヵ月間無人島生活して曲を書きますとか、そういう感覚じゃなくて。日常の中で出てくるものはたぶん変わらないけど、それをより面白く、日記のように綴っていくのがいいのかな?と思ってます。だからこれからの曲作りも、知識とか技術とか、意識的なインプットが必要なのかな?と思っていますね。1作目は本当に、根幹の部分をどう絞り出すか?みたいな感じだったんですけど、2作目を作ってみて、3作目はまたさらにそうなってくんだろうな、みたいな感覚ですね。

──曲調のバラエティ豊かさは同じでも、二人の表情や心の中は着実に変化している。みなさん、お風呂でピーナッツの新しいイヤーブックを楽しんでほしいと思います。

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