“才能”を見せつけた深夜のパーティ

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“才能”を見せつけた深夜のパーティ

なぜか、宇多田ヒカルのライヴを初めて観たときの感覚がよみがえってきた。しかも、強烈にだ…。

初めて観たRIZEのライヴ・パフォーマンス。

Club asiaというハコで行なわれたイベント、彼らは深夜2時頃からステージにその姿を現した。通常は踊るスペースとなるフロアは、こんな時間帯にもかかわらず彼らのファンですでにパンパン状態だった。結局、フロアに辿り着くまでの階段の真ん中あたりまでしか行けず、最終的には階段の横にある黒い鉄格子越しに彼らのパフォーマンスを見るという状況になってしまった。

あとで思い返してみたら、じつは宇多田の1stライヴのときも ZEPP TOKYOの2階席の一番前の鉄格子越しに観ていたのだ。

けれども“匂った”のはそんな両者の単純なつながりの部分ではない。

まず、華がある。

新人なのに「あぁ、この人はここに立つために生まれてきたんだ」「ここにいるときが一番輝いているんだ」と、ステージでの佇まいが目に飛び込んできた瞬間、誰もがそう自然と思えるようなオーラが出ているのである。

演じて出るものではない、ましてや学習して出るものでもない。そして、これから場数を踏んでいかなければという、いわばスタート地点にいるアーティストにもかかわらず、ステージ上でのとても堂々とした立ち振る舞い。

この堂々さ加減も、観ている側に押し付けがましさを感じさせるようなものとはまったく質の違うものが、すでにこの段階で身についているのである。しかもそうあることが、ごくごく“普通”に思えてしまうようなレベルで、である。

さらには、アーティストが発する吸引力のデカさ。

例えば「この次の日、突然いわれて日本武道館のステージに立ったとしても、なんなくクリアしちゃうんだろうな」という亊が、今日のステージから容易に想像できる、ということである。宇多田の場合、事実その1stステージからほんの数カ月後、イベントという形だったが日本武道館のステージに立った。

そのとき、思い描いていた想像は確信へと変わっていった。

ニルヴァーナ以降、彼ら直結のアーティストのデビューが増えた。いまはレイジ以降ということになるのだろうか。

ラウドシーンには、レイジやリンプに影響を受けただろうバンドがうようよといる。そのなかで、RIZEの輝き方というのは、CDを聴いた段階から別のステージにいるかのような雰囲気を感じていたのだが。今回、ダイレクトにライヴを観て、その別ステージ感はさらに大きくなっていった。

2001年、このままでもRIZEはそのアーティスト・パワーだけで、十分大きくなっていくことだろう。いまはその才能だけでひたすら暴走すればいいと思う。

けれども、RIZEが本当に怖いのは、いま一つ一つ経験していったものが武器となった瞬間だということも憶えていてほしい。

文●東條祥恵(00/12/29)

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