【インタビュー】HATANO [HAWAIIAN6]、池袋を語る「本来ディープな街だった」

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HAWAIIAN6のHATANO (Dr)が育った大塚はJR山手線 池袋の隣駅。幼少期から学生時代の記憶は池袋に由来するものが多く、YUTA (Vo / G)との出会いも池袋のライブハウスだったという。また、自身のレーベル立ち上げは2007年のこと。その始動時の本拠地として地元を選んだほか、現在も池袋エリアのスタジオを使うことが多いなど、数十年間にわたり街の変遷を肌で感じてきた。

◆HATANO (HAWAIIAN6) 画像

池袋の裏の顔まで知るトークは自身の経験談を含め、破天荒過ぎて爆笑ものの秘話ばかり。その中から掲載できる範囲でのインタビュー公開とはなるものの、「サンシャイン60」が完成した当時のエピソードから再開発で変わりゆく現在まで、池袋の今昔を知るには充分の内容となった。とりわけ、音楽スポットに関するトークにはインディーズバンドを取り巻く時代感が浮かび上がる。池袋のリアルを語ってもらったインタビューから街の特色が見えてくるはずだ。

なお、BARKSでは『音楽と住まい』と題した連載特集ページを公開中だ。【池袋エリア 編】はその第六弾であり、ライブハウスMAPや街の音楽情報、物件情報を掲載しているのでこちらも併せてご覧いただきたい。


   ◆   ◆   ◆

■池袋西口は危ないムードというか
■今ほど明るい雰囲気ではなかった

──まず、“池袋”と聞いて、どんなことを思い出しますか?

HATANO:若かりし頃によく行っていた街ですね。サンシャインシティから東急ハンズに抜ける「地下通路」は、鼻息の荒い学生たちの衝突がよく起こる人気エリアでしたから(笑)。

──ははは。その「地下通路」は先日取材で通りましたけど、今はまったくそんなヤンチャな雰囲気が残ってません(笑)。特に「サンシャイン通り」あたりはファミリーとかカップルで賑わってますから。30年とか40年前はそうではなかったんですね?

HATANO:今は映画館や劇場とか、洒落た飲食店やショップも多いですけど、「サンシャイン通り」とか「地下通路」はファミリーが行くような場所じゃなかったと思いますよ。ゲームセンターとかパチンコ屋とか飲み屋とか、違う意味で“キラキラした通り”だったという認識(笑)。今は飲み屋が減って、大人が子どもたちを連れてくるようになったイメージですね。おそらく掲載できないであろう池袋のヤバい昔話はたくさんあるので、言葉を選びながら話しますけど(笑)。

▲HATANO (HAWAIIAN6)

▲サンシャイン通り

──ははは。では当時、TVドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(2000年放送)のようなイザコザが池袋東口でもあったり?

HATANO:俺の学生時代は、そのドラマよりもっと前に遡るんですけど、“子どもの遊び場が池袋だった”みたいなことじゃないですかね。元気のあり余ってる若者たちがそこに集まっていたというか。『池袋ウエストゲートパーク』で「西口公園」が注目されてた頃は、大宮ナンバーのヤンキー車が集まるようになったんですよ。そこでまた地元のカラーギャングと大宮ナンバーとのイザコザが起きるっていう(笑)。

──HATANOさんの地元は大塚(JR山手線 池袋の隣駅)とのことですが、記憶をさらに幼少期まで遡ると? たとえば「サンシャイン60」の開業は1978年でした。

HATANO:今でも覚えているのは、「サンシャイン60」がオープンして、両親が「すごく景色のいい場所でゴハンが食べられるから、みんなで行ってみよう」って、最上階の展望レストランに連れて行ってくれたんですよ。でも俺は、「そのメシを食ったら死んじゃう」と思って。

──なぜですか(笑)!?

HATANO:俺の家は別に金持ちじゃなかったから、無理して連れて行ってくれたんだと思ったんです。そのレストランで、「食べたいものがあったらなんでも」って親父とおふくろから言われたんですけど、貧乏人がこんなところでメシ食ったら破産するんじゃないかと思って、「何もいらない。もうみんなで帰ろう」って泣きながら答えたという(笑)。親父とおふくろを困らせた記憶があります(笑)。

──ははは。めちゃめちゃカワいい純真エピソードじゃないですか。

HATANO:たぶん小学1年生の頃じゃないかな。当時、あそこまで高いビルとか高層マンションみたいなものは近くになかったから、「サンシャイン60」が完成したときは結構ビックリしたんですよ。それに、池袋駅周辺には西武とか東武とかデパートもたくさんあって。昔は、デパートって高嶺の花のような場所だったじゃないですか? だから、小さい頃の池袋には“家族でちょっとしたおでかけ”みたいな思い出がありますね。自転車に乗って西武百貨店へプラモデルを買いに行ったりもしたかな。

──なるほど。で、中高生の頃は池袋が遊び場になったという?

HATANO:「ロサ会館」によく通ってましたね。24時間営業のボーリング場とかゲームコーナーがあったから、ガキがたまる場所だったんですよ。当時、池袋西口は歓楽街の危ないムードというか、今ほど明るい雰囲気ではなかったですけどね。池袋西口界隈は再開発で印象が変わったし、東口も今ビックカメラがあるところが昔は映画館だったり、ここ最近でいえば豊島区役所あたりも再開発で大きく様変わりした。ファミリーが増えたっていうのは、そういう変化に応じてなんでしょうけど。

▲HATANO (HAWAIIAN6)

──では、音楽に関することで、池袋にはどんな思い出がありますか。

HATANO:子供の頃、豊島公会堂には小学校の発表会で入った記憶があるかな。10代の頃でいえば、池袋の音楽スタジオってけっこう当時から栄えていて、「スタジオペンタ」にはいろいろなところからバンド練習しに来る人たちが集まっていたんですよ。俺も何回か行きました。初めてドラムを叩いたのが池袋の「スタジオペンタ」だったし。15〜16歳の頃かな。

──それはどんなきっかけで?

HATANO:じゃんけんに負けて、「ドラムをやってくれ」って言われ(笑)。全然叩けなかったんですけど、「棒でスネアをパンパンやっててくれればいいから」って。今は、それこそ高校の部活みたいな子たちも練習スタジオに来てますけど、当時は、スタジオ内もすごくダークで、おっかないバンドマンばかりでしたからね(笑)。それが初めてのスタジオ体験。

──ただ、怖い人がいるスタジオに通うことになるぐらい、ドラムが楽しくなったんですか?

HATANO:いや、じゃんけんに負けて行っただけで、すぐ行かなくなるんですよ(笑)。そこからHAWAIIAN6に至るのは8年~9年後です。

──HAWAIIAN6は1997年に結成されていますが、その頃は池袋界隈で練習していたのでしょうか。

HATANO:今は池袋のスタジオを使うこともありますけど、当時は大塚の街スタジオでやってました。昔は大塚と池袋の「スタジオペンタ」とか、スタジオが数えるぐらいしかなかったですから。少しずつ増えていった印象ですね。

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