【連載】Vol.091「Mike's Boogie Station=音楽にいつも感謝!=」

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リトル・リチャード ビル・ウィザース ミリー・スモール ベティ・ライト ハミルトン・ボハノンR.I.P.
激動の2020年が早くも半年すぎようとしている。20世紀から親しんできた多くのアーティストがこの世を去っていった。R.I.P.。素晴らしい“音楽”と“時”を僕たちへ味あわせてくれたレジェンドは各方面で称えられている。今号で20世紀に僕が特に愛聴していた何人かのアーティストの想い出を一言、述べたい・・・。

*リトル・リチャード 5月9日没 享年87
1950年代中期から後期にかけてチャック・ベリー、ファッツ・ドミノ、ボ・ディドリーらとともにロックンロール誕生に大きく貢献した黒人アーティスト。わが国ではその時代「Lucille」が話題を呼んだ。発売時日本語タイトル表記はルシールではなく“ルシヤ”。ほぼ同時期の58年に故・平尾昌章がカバー、その時のタイトルは“ルシア“だった。勿論このことはリアル・タイムで知った訳ではなかった。僕がリトル・リチャードに注目したのは1962~3年頃。当時のマイ・アイドル坂本九の「戦場に陽はおちて」がリトル・リチャードカバーだったからだ。でも何故かリトル・リチャードのマイ初シングルは「なみだのチャペル」だった。


▲from Mike’s Collection

1960年代彼の名はビートルズ・ファンによって多くの若者に伝えられ、70年代に入ってからは何度となくロックンロール・リバイバル・イベントに登場した。勿論ローリング・ストーンズのミック・ジャガーやキース・リチャーズも大きく影響を受け音楽に熱中するようになったという。62年7月のストーンズ・ファースト・ギグで「Kansas City」がセットリストに登場している。下記URLをご覧頂きたい。御大&キースのツー・ショットはWOWなのだ。
https://www.barks.jp/news/?id=1000182408

*ビル・ウィザース 3月30日没 享年81
アメリカ音楽界でシンガー=ソングライターとしての功績が高く評価されているビル・ウィザース。1971年に「Ain’t No Sunshine/消えゆく太陽」でセンセーショナルにデビュー。彼の才能を高く評価したのはブッカー・T.ジョーンズだった。この曲はBillboard誌HOT100同年9月18日付&25日付で3位を記録している。日本盤シングル「消えゆく太陽」ライナーノーツは筆者だった。その後ビルは「Lean On Me」(HOT100で1位)「Use Me」(HOT100で2位)他のヒットを放ち80年代にはグローヴァー・ワシントン・ジュニア、ラルフ・マクドナルドとのデュオでも話題を呼んだ。2015年ビル・ウィザース/グラミー賞ロック殿堂入り記念LIVEでのスティーヴィー・ワンダーによる「消えゆく太陽」は記憶に新しいところ。また先日の【ONE WORLD:TOGETHER AT HOME】でスティーヴィーは「Lean On Me」を披露している。因みにイベントのMCなどをさせてもらった故・柳ジョージのカバー「消えゆく太陽」も実に素晴らし出来栄えだ。機会があったらお聴きいただきたい。


▲from Mike’s Collection


▲51年前の恥文…汗。

*ミリー・スモール 5月5日没 享年72
ほぼワン・ヒット・ワンダー的存在だったけど♪and I’ll never let you go♪と今でも殆どの歌詞を暗譜している「マイ・ボーイ・ロリポップ」。歌はミリー・スモール。2分と今でいえばちょっぴり短めだが当時としてごく当たり前の尺のナンバーは1964年全世界で話題になった。ジャマイカ出身で当時ロンドンに住んでいたミリーの歌うこのスカ・ナンバー(なんていうことは70年代に入ってから知った)、フロム・ジャマイカのファースト・ヒットだったのだ。彼女の才能を見出したのはクリス・ブラックウェル。Billboard誌HOT100では7月4日付4位を記録。また“TBS POPS BEST10”では9月13日付7位を記録した。梅木マリ、中尾ミエ、伊東ゆかりのカバーも親爺には馴染み深いけどやっぱ寅年マリ・ヴァージョンが二番です。漣健児・詞のミリーがたどたどしく歌う日本語ヴァージョン「あなたが好きなの/I Love The Way You Love」(65年)も大好きだったナァ、でもレコードは購入しなかった。


▲from Mike’s Collection

*ベティ・ライト 5月10日没 享年66
1970年代初頭、僕は中央大学に通いながら音楽業界を泳ぎ回っていた。レコード解説&雑誌の原稿書きからラジオ番組構成、TV出演(リブヤング!)…。そしてストーンズやジェシィ・デイヴィスのライナーを書きながら週2のディスコDJまで引き受ける何でも屋だった。伝説のソウル・バー「George’s」には故・桜井ユタカさんが66年に連れて行ってくれた(高校1年生、RSFC会長時代だ)、その「George’s」がオープンさせたのが今で言う西麻布、霞町交差点近くの小さなディスコ「Love Joy」。ここで週末に深夜DJしながら大騒ぎしてたけど、当時ジェームス・ブラウン、オージェイズらと共にヘヴィー・ローテーションだったのがベティ・ライト。曲は71~72年に大ヒットした「Clean Up Woman」、USではゴールド・シングルを獲得している。Billboard誌HOT100で72年1月29日付6位。同誌Soul Singlesでは2位までランク・アップした。まだ17歳だったけど実にグルーヴ感あふれたシャウトぶりで、まさに本格派だ。その後多くのヒットを放ち(40近いソウル・チャート・イン・ナンバー)グラミーにも輝いている。2012年来日公演を行っている。


▲from Mike’s Collection


▲2012年2月28日@Billboard Live TOKYO  撮影:前川原潤

*ハミルトン・ボハノン 4月24日没 享年78
1970~80年代にかけて多くのヒットを放ったハミルトン・ボハノン。わが国では70年代にディスコ・シーンでその名が注目を集めた。最初のヒットは75年の「Foot Stompin’ Music」。Billboard誌Hot Soul Singles(同誌R&Bチャートの名称はよく変わった)39位。わが国では76年1月リリース、邦題は“素敵なデスコティック”。その頃新宿や六本木で流行っていたダンス“ポイント”にぴったりの曲だった。


▲from Mike’s Collection

当時、僕は週末になると新宿歌舞伎町スタッセビル地下の「キティ・ホーク」でDJしていて、このシングル・レコードをよくターン・テーブルに乗せていた。ハミルトン・ボハノンは才能溢れたドラマーだった。お互いアマチュアだった頃に故ジミ・ヘンドリックスとも一緒にプレイしたこともあるという。その後60年代スティーヴィー・ワンダーのツアー・バンドの一員として活動し続いてボハノン&ザ・モータウン・サウンドのバンマスとして故マーヴィン・ゲイ、フォー・トップス、テンプテーションズ、ミラクルズ、ダイアナ・ロス&スプリームス他多くのモータウン・アーティストのライヴで敏腕ぶりを発揮した。70年代にソロとして独立。70年代後半には大ヒット「Let’s Start The Dance」を発表。80年代からはボハノン名義で活動を続けた。

70年代中期当時「キティ・ホーク」で僕の弟子のようにしてDJしていた10代のアフロヘアー、マイケル山田(彼はダンサーとしても僕のイベントで頑張ったことがある)や大学の後輩でそれこそ近年にいたるまで都内&地方イベントで100回以上“競演”した松本みつぐ(赤シャツ)、共に若くしてこの世を去った、ここで彼らの冥福も祈らせていただく。

☆☆☆☆☆

最後にケニー・ロジャース、二ール・パート(ラッシュ)、マッコイ・ターナー、ブライアン・ハウ(バッド・カンパニー)らの冥福も祈りたい。そして忘れてはならないもう一人、大仲良しだった故・大口ヒロシ&故・ムッシュかまやつらとウォッカ・コリンズを結成した関係で親交のあったNY在住アラン・メリルが新型コロナウイルス感染のため3月に69歳という若さでこの世を去ったことも報告させていただく。同学年のアランと最後に酒を酌み交わしたのは11年前のヒロシ追悼LIVE の二次会だった…。R.I.P.

そしてこの原稿を書き上げた直後また悲報が届いた。ゴダイゴのギタリスト浅野孝巳が5月12日逝去した。享年68。10代から音楽活動を始め、その卓越したギター・テクニックは後に故・大口ヒロシからよく聞かされたものだ。僕もエムのステージでのその凄さに吃驚させられた。1970年代中期からがゴダイゴで大活躍したことは周知の通り。21世紀になって何度か彼が出演したイベントなどのMCを務めさせてもらった。最後は2017年7月“Play The Super Duo Guitars!!~Meets The Rock!!~ 浅野孝已/GTR(fromゴダイゴ)vs芳野藤丸/GTR & Vo(fromショーグン)”だった。彼はベンチャーズも大好きだった…。ご冥福をお祈りする。



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