【スペシャル・バイオグラフィ】“静かなるBeatle”が残した偉大な業績

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“静かなるBeatle”が残した偉大な業績


ロックンロール史上で最も有名なバンドBeatlesに在籍していたことを思えば、George Harrison('43年2月24日、英国リヴァプール生まれ)の活動を“地味”という言葉で形容するのは適切ではないだろう。たしかにFab Four(Beatles)の名を知らしめたのは主としてJohn LennonPaul McCartneyによって書かれ、歌われた曲の数々であるが、ギタリストおよびソングライターとしてのHarrisonの貢献は初期のころからバンドの重要な部分であり、あらゆる点でGeorge抜きのBeatlesは考えられなかったと言える。その証拠は? 

'80年代の後半に著作権管理団体のBMIが特定の作品で5万時間以上のラジオ放送を獲得したソングライターに“Million-Airs”を授与したとき、連続22年間以上のオンエアに相当する400万時間を記録したBeatles作品はわずかに3曲であった。その3曲とは? あらゆる賞を総なめにしている「Yesterday」と「Michelle」(いずれもLennon & McCartney名義)、そして驚くべきことに4年も後のGeorge Harrison作品「Something」なのである。

かつて“静かなるBeatle”と呼ばれたHarrisonは、'63年に「Don't Bother Me」でソングライターとしてデビュー、この曲は米国では'64年の『Meet The Beatles』で初めて公開された。「勇気を奮い起こすのに少し時間がかかったよ」、'92年にHarrisonはBillboad誌のTimothy Whiteに語っている。「だって僕らはすでに「Love Me Do」「Please Please Me」「From Me To You」などLennon & McCartneyの作品でたくさんのヒットを放っていたからね。二人はまるでヒット作りのエキスパートみたいになりつつあったんだ。僕は何とか受け入れられるような曲、笑いものにされて部屋から追い出されずにすむような曲を書こうと必死だったよ」。実際のところHarrisonの曲の多くは笑いものどころか、しっかりと構築されていた。それにLennon & McCartneyがあまり好まないマイナーキーの曲も多く、ただでさえ輝きに満ちていたアルバムをさらに磨き上げるのに役立つような価値ある音楽的コントラストをもたらしたのである。最終的にBeatlesは'63年から'70年までに21曲のHarrison作品をレコーディングした。「If I Needed Someone」「Taxman」「While My GuitarGently Weeps」「Here Comes the Sun」そして言うまでもなく「Something」など、その多くはバンドのレパートリーの中でもよく知られた作品である。

HarrisonがBeatlesの音楽、ひいては西洋のポップス界にインド音楽の要素を取り入れたパイオニアであるという話は広く語られているとおりだ。『Sgt. Pepper'sLonely Hearts Club Band』の「Within You Without You」やシングルB面曲の「The Inner Light」など、Beatlesナンバーの中で最もエキゾティックな作品はたいていはHarrisonによるものである。さらにあまり評価されずにきたことだが、Harrisonが秀でていたもうひとつの音楽的分野に、'60年代サイケデリックを反映した傑作を書く技術がある。『Yellow Submarine』の「It's All Too Much」や『Magical Mystery Tour』の「Blue Jay Way」はそのジャンルにおける最良の事例だが、おそらくインド音楽への傾倒からインスピレーションを得たと思われるドローンサウンドの使用法が、当時の最先端を行っていたことは今でもよくわかる。

独自の奥義を会得したHarrisonは、最初にソロアルバムを発表したBeatleでもあった。'69年の『Wonderwall Music』は主としてインドにインスパイアされたインストルメンタル音楽による良くできたサウンドトラックである。矢継ぎ早にリリースされた次作『Electronic Sound』はタイトルが示す通りに、Moogシンセサイザーを用いた最初期の音響実験という非商業的な作品となった。しかし、時の流れとともに忘れ去られがちなことかもしれないが、Beatles解散後のメンバーが発表したソロアルバムのうち、最も大きな成功を収めたのはHarrisonの3枚組LP『All Things Must Pass』なのである。Phil Spectorが共同プロデューサーを務めた同アルバムは7週連続でNo. 1に輝くダブルプラチナムセラーとなり、両面No. 1の「My Sweet Lord」カップリング「Isn't ItA Pity」と「What Is Life」の3曲のトップ10ヒットを生んでいる。(「My Sweet Lord」は'61年のChiffonsのヒット「He's So Fine」の盗作であると訴えられ、大きな論争を呼んだ。この訴訟は'76年に和解に達したが、Harrisonは100万ドル近い損害を被ったという。)

Harrisonは'71年にBob Dylan, Ringo Star, Eric Claptonといった豪華ゲストを迎えて『Concert For Bangla Desh』を開催した。この模様はレコードとフィルムに収録され大きな成功を収めたが、特にライヴアルバムは6週間連続でチャートのNo. 2を記録し、'72年のGrammyでAlbum of the Yearに輝いている。'73年に『Living InThe Material World』を引っ提げて戻ってくるころには、もはやHarrisonのやることに間違いはないという感じだった。このアルバムは5週連続でNo. 1となり、やはりチャートのトップに輝いた大ヒット「Give Me Love (Give Me Peace On Earth)」を生み出した。また「Sue Me, Sue You Blues」など面白い風刺の利いた曲も含まれているが、このように自身のキャリアをウィットに富んだ姿勢で書き留められるのは、ソロ活動が成功し続けていればこその余裕であろう。だが、'74年の『Dark Horse』は彼にとって不吉な予兆となった。アルバムそのものはトップ5にすべり込みゴールドに輝いたものの、タイトルシングルはHarrisonにしてはパッとしない15位という成績に留まったのである。さらに不運なことに次のシングル「Ding Dong, Ding Dong」は36位に終わり、彼のキャリアにおける最低ランクを記録したのだった。しかも間の悪いことに、こうした事態はHarrisonが初めての全米ソロツアーに向けて大掛かりなパブリシティを展開している時期に起こったうえ、そのツアー自体も喉の不調に悩まされ続けたのである。

当時はまだ'70年代の半ばで、多くの人々にとってBeatlesの記憶がまだ鮮明だったため、Harrisonの続く数枚のアルバムは総じてそれなりに売れたものの、驚くほどの成果は上げられなかった。'75-'79年の間にトップ40入りするシングルを4枚リリースしているが、その中で最高の16位を記録した'79年の「Blow Away」でさえマイナーヒットで、スタイル面でも前向きというよりも懐古的な内容であった。'81年の『Somewhere In England』に至っては、アグレッシヴなまでにノスタルジックな「All Those Years Ago」がNo. 2の大ヒットになったにもかかわらず、Beatles解散後のHarrisonのアルバムで初めてゴールドを逃すという結果に終わっている。さらに状況は悪化し、'82年の『Gone Troppo』は108位までしか上昇せず、2ヶ月もしないうちにチャートから姿を消したのであった。Harrisonはしばらくレコーディング活動を中止して、『The Life Of Brian』など映画プロデューサーとしての仕事に専念したが、これは懸命な選択だったようだ。Harrison自身が設立したHandMade社は、『Time Bandits』『The Missionary』『Shanghai Surprise』『Mona Lisa』『Withnail and I』といった作品を生み出している。

だが、この元BeatleはプロデューサーJeff Lynne(ELO、Move)の力を借りた'87年の『Cloud Nine』でパワフルな復活を果たした。このアルバムは精緻なまでにBeatles的でありながら、ネガティヴな意味でそうなっていない初めてのHarrison作品で、非オリジナルながら14年ぶりのNo. 1ヒットとなった「Got My Mind Set OnYou」や、ユーモラスな「When We Was Fab」をフィーチャーしていた。アルバムチャートでは第8位まで上昇してプラチナムに輝き、メジャーアーティストとしての彼の地位は急速に回復されたのである。'88年と'90年にはHarrison、 Bob Dylan、Roy OrbisonTom Petty、Jeff LynneによるスーパーグループTraveling Wilburysで2枚のアルバムをプラチナムヒットさせ、シーンへの“カムバック”をさらに決定的なものとした。しかし'92年の2枚組CD『Live In Japan』は、Eric Claptonをゲストに迎えて「Taxman」など最初期のレパートリーからキャリアを回顧したコンサートのライヴ盤であったが、チャートでは126位までしか上昇せず、たった2週間で圏外へ転落したのだった。この売り上げ不振のためか、Harrisonは再び音楽活動を休止してしまったのである。

Harrisonがファンにとっては感じやすい人気者であることは明らかだが、彼の事を積極的に嫌う人が極めて少ない希有なポップスターでもある。彼の業績は全ロックンロール史上において最も大きなもののひとつであり、Beatlesおよびソロキャリアの初期における輝かしい記録は、彼には自身に課せられた重荷を背負ったうえでも前進を続ける能力があることを示している。だが、そうした偉業とリヴァプールでの最初期からBeatlesをフォローし続けてきたメディアによる注目という面を除けば、'90年代のGeorge Harrisonは他の多くのアーティストと何も違いはないのである。彼は食べ、眠り、息をして、そして時々はヒットレコードを必要としているのだ。

by Dave Dimartino

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