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幾度もの栄光と苦難を乗り越えた20世紀最大のポップスター

'70年代にBeatlesファンが「えっ!Paul McCartneyってWingsの前に別のバンドにいたんだって?」と驚いて話す若いレコード購入者の話をでっちあげて喜んでいたように、今度はソロアーティストのPaul McCartneyがかつてバンド活動をしていたことさえ知らないさらに若い新世代のCDユーザーがWingsファンを喜ばせていることだろう。これは誇張かもしれないが、'79年のGuiness Book of Recordsにそれまでで最も成功したポピュラー音楽の作曲家として認定された男ならば、その可能性は残されている。この唯一無二の栄誉を得た後も、McCartney(本名James Paul McCartney、'42年6月18日、英国リヴァプール生まれ)は数多くのアルバムをリリースし、伝説となったリヴァプール男のキャリアは'90年代に入ってそれまで以上の生産的なペースで継続している。Elvis Costelloとの共作が話題となった'89年のゴールド作『Flowers InThe Dirt』から'93年の『Paul Is Live』まで、McCartneyはトータルで7作のアルバムを発表しており、これはBeatles時代に録音したアルバム数の約半分に相当するのだ。

実際のところ現在も活動を続けているMcCartneyが'70年のBeatles解散後に放ったトップ40ヒットの数は、彼とJohn LennonがBeatles時代に残した合計40曲という驚異的な数字に到達する可能性もある。この40曲にはMcCartneyがLennonとの共作名義でPeter& GordonやBilly J.Kramer といった'60年代ブリティッシュインヴェイジョンのスターに提供したヒットは含まれていないが、これはこれで彼の尋常ではない成功ぶりの一端を示すものではある。いずれにせよMcCartneyがBeatlesとともに打ち立てた記録は永遠に不滅であろうと思ってきた熱烈なBeatlesファンにとってはショッキングな事実かもしれない。

こうした記念碑的な偉業にもかかわらず、ある意味でBeatles解散以降のMcCartneyは苦闘を続けてきたと言えるかもしれない。その大半はLennon & McCartneyは激しさと優しさの完璧なバランスを持つソングライティング・チームであり、Lennonは屈強なロックンローラーで、McCartneはソフトでスウィートなクルーナーだという長い間にわたる批評家の先入観に端を発するものである。初期のころから批評家たちはMcCartneyは「A Taste Of Honey」や「Till There Was You」のようなカヴァー曲を好むのに対して、Lennonは「Roll Over Beethoven」や「Rock 'N' Roll Music」といったChuckBerryナンバーを選ぶと指摘してきた。バンドの解散後はこうした二元論が公の記録にも残るようになった。Lennonは'71年の「How Do You Sleep」で“君の作るサウンドは僕にはBGMにしか聞こえない”とダイレクトにMcCartneyを批判したのに対し、McCartneyは5年後の「Silly Love Songs」で“大衆はくだらないラヴソングにうんざりしてるって君は思うだろうけどね/僕のまわりを見回したところではそうでもないよ”とやんわりと反論している。少なくとも商業的なレベルという面では、'75年にLennonが音楽ビジネスから5年間の休暇を取るまでに9曲のトップ40ヒットしか生み出さなかったのに対して、同じ期間にMcCartneyは16曲をヒットさせているというのが現実なのである。

だが、Beatles解散後のLennonのアルバムのうち'72年の『Sometime In New York City』をはじめとするかなりの量の作品が低い評価しか得ていないのに対して、'70年の『McCartney』や'71年の『Ram』といったラフな仕上がりの初期McCartney作品が今でも驚くほどフレッシュで現代的なのは、おそらく皮肉な事態であろう。Lennonは個人的なものであれ政治的なものであれ、時には必死になって重要なメッセージを伝えようとするが、McCartneyによる精緻だが気楽で肩の凝らない音楽制作へのアプローチは、新グループWingsのかなり原始的な'71年のデビュー作『Wild Life』で端的に示されており、さらにタイムレスなアピールを持つ魅力を湛えている。Wingsは2ndセカンドアルバム『Red Rose Speedway』の時までに巧妙すぎるくらいに高度に洗練されたグループへと急速に成長し「My Love」のナンバーワンヒットも生み出したが、完全なまでの演奏力を備えながらも過度にシリアスぶらないセンスはますます魅力的なものとなっていた。

さらに批評家達は引き続きMcCartneyは感傷的な音楽に重点を置いていると主張していたが(確かに「My Love」のようなバラードはそのとおりだが)、この元BeatleはアルバムやシングルのB面などでかなりの数のストレートなロック風ナンバーを残している。その中でもベストに挙げられるのはトップ10ヒットの「Hi, Hi, Hi」「Helen Wheels」「Jet」それにMcCartneyの最高傑作にして最大のヒットとなったアルバム『Band On The Run』のタイトル曲などである。この'73年のアルバムは彼が自身のキャリアをフルに開花させており、もはや昔のバンド仲間がいなくても次々にヒットを飛ばせるのだということを多くの人々に知らしめたのであった。

'81年にWingsが正式に解散するまでに、McCartneyは24曲のトップ40ヒットを残したが、そのうち14曲がトップ10入りし、さらに6曲がナンバーワンに輝いている。アルバムもプラチナムとなった'78年のコンピレーション『Wings Greatest』を除いて9作品すべてがトップ10入りしており、特に『Red Rose Speedway』から'76年の『Wings Over America』までは5作連続でナンバーワンとなっている。McCartneyは'60年代にチャートで最も成功したグループの一員であったが、'70年代においても彼の記録を凌ぐ実績を残したアーティストはわずかにElton Johnのみである。

'70年の『McCartney』以来の完全なソロアルバム『McCartney II』で'80年代をスタートさせたMcCartneyだったが、それまでの20年間と比べれば商業的な面での大きな後退は避けられかったようだ。ナンバーワンになったアルバムは'82年の『Tug Of War』だけで、最大のヒット曲もStevie Wonder('82年の7週No.1「Ebony And Ivory」)やMichael Jackson'82年のNo.2シングル「The Girl Is Mine」と'83年の6週No.1「Say, Say, Say」)とのデュエットによるものであった。特に後の2枚のシングルは、『Thriller』で生涯最高の栄誉を経験しつつあったJacksonが、それまで20年間にわたってMcCartney自身が君臨してきたのと同様のスーパースターの座を享受し始めたことを示すものとして重要である。二人のデュエットが連続してヒットしたのは、そのトラックにMcCartneyよりもむしろJacksonが参加していたことに負うところが大きかった可能性が高いからだ。

この元Beatleは何となくパッとしない形で'80年代を終えようとしていた。'84年には自身が制作したものの評判の良くなかった映画『Give My Regards To Broad Street』からの「No More Lonely Nights」、'85年にはやはり同名映画の主題歌「Spies LikeUs」とさらに2曲のトップ10ヒットを放ったものの、彼のキャリアにおいて初めてゴールドにさえ達しないアルバム('86年の『Press To Play』と'87年のヒット曲集『All The Best』)をリリースする事態に至ってしまったのである。

McCartneyの危機的な状況は'89年の『Flowers In The Dirt』で活性化された。これにともなう13年ぶりとなる大規模なGet Backワールドツアーは、McCartneyが「Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band」「The Fool On The Hill」「Hey Jude」など予想もしなかったBeatlesナンバーを演奏するという趣向が受けて大盛況となった。『Tripping The Live Fantastic』はツアーの模様を収めた2枚組のライヴCDだが、リリースの1ヶ月後にはCapitol Recordsが抜粋版の『"highlights"』を発売した。これは13曲のMcCartneyによるBeatlesカヴァー(ソロ作品は4曲)を収録した1枚もののCDで、おそらく知られていないことだろうがプラチナムに認定されたのは後者の方だけである。

'91年のMcCartneyは特に活動的で、まずMTV関連のアンプラグドものとしては最初期の1枚に数えられる『Unplugged: The Official Bootleg』をリリースした。このアルバムは彼が生まれて初めて作曲した「I Lost My Little Girl」の初レコーディングをフィーチャーしており、元来非公式な企画ものであったにもかかわらず驚くほど良いセールスを記録したのである。その5ヶ月後には'88年に旧ソ連のみでの発売を前提に録音していたBeatlesを含まないオールディーズ曲集『CHOBA B CCCP (Back In the USSR)』をワールドワイドに発売した。同じ週には初の本格的なクラシック作品となる『Liverpool Oratorio』をリリースした。共作と指揮はCarl Cavisが担当し、RoyalPhilharmonic Orchestraと合唱隊を迎えて、リヴァプールのカテドラル教会で録音された作品である。ポップヒットが含まれているわけでもなく、音楽評論家から熱烈に歓迎されたわけでもなかったが、クラシック・チャートのトップへと一気に昇り詰めたのだった。

その後もMcCartneyの生産的なペースは続き、'93年には『Off The Ground』を発表した。そこにはElvis Costelloとの共作がさらに2曲含まれていたが、シングルの「Hope Of Deliverance」は残念ながら83位で終わってしまった。'89年~'90年のツアーの大成功にすっかり気を良くしたMcCartneyは、再び大掛かりなツアーへと旅立った。自身の全キャリアにおいて最大の規模となったThe New World Tourは5大陸を巡り、「All My Loving」「Here There And Everywhere」「I Wanna Be Your Man」など長らく聴くことのできなかったBeatlesナンバーをフィーチャーした内容となっていた。'93年の後半にはまたもやライヴ・アルバムをリリースしたが、そのカヴァーはBeatlesの『Abbey Road』のパロディであった。つまり有名なロンドンのAbbeyRoad前の横断歩道を犬を散歩させながら渡る彼の姿をとらえた写真が使われており、タイトルの『Paul Is Live』も『Abbey Road』の発売当時にささやかれた“ポールは死んだ(Paul is dead)”という噂に引っ掛けたものである。さらに'97年には『Flaming Pie』をリリース、発売と同時にBillboardチャートのトップ10にランクされるという偉業を達成した。

明らかに自分自身や過去の栄光とも折り合いをつけたPaul McCartneyは、その生涯において世界中で10億枚以上のアルバムを売り上げている。今後もこの記録を更新していく可能性は極めて高いだろう。

by Dave Dimatino

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