いい音爆音アワー vol.117 「追悼♪Both Sides of 筒美京平」

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爆音アワー
いい音爆音アワー vol.117 追悼♪Both Sides of 筒美京平
2020年 11月18日(水)@ニュー風知空知
2020年10月7日、筒美京平さんが、誤嚥性肺炎のため東京都内の自宅で亡くなりました。2,700曲以上の作品を残し、その内チャート100位以内へのランクインが500曲、作品総売上は7650万枚という、まさに日本最大の作曲家でした。特に70年代、80年代の歌謡曲シーンは、彼がひとりで半分くらいは背負っていたんじゃないかと思うほどです。
訃報から1ヶ月、京平さんの業績を振り返る、様々な番組や記事が組まれましたが、そのほとんどは大ヒット曲の列挙、変わり種として「サザエさん」のテーマ曲も、といった内容でした。マス向けのメディアとしてはそれが妥当だし、仕方ないでしょう。
だけど、そのあたりを聴くだけでは京平さんの真の魅力はつかめません。当イベントではやはり、知られざる名作や、歌謡曲以外の作品にもスポットを当てようということで、筒美京平さんの「Both Sides=(レコードのAB)両面=ヒット曲もそうでない曲も…」というテーマにしてみました。また編曲家としての京平さんにも要注目。ほんとは「両面」どころか何面もありますね。
「職人としての作曲家」が京平さんのモットーでしたし、「心に染みる歌を創りたいなんて思ったことは一度もない。どうやったらヒットするかばかり考えている」と豪語されていましたが、それなのに、心に染みる歌を創ってしまうところがほんとにすごい。
筒美京平という肉体は亡くなりましたが、彼が生み出したたくさんの歌は、これからも不老不死で、永遠に歌い継がれていくことでしょう。

福岡智彦 (いい音研究所)

セットリスト

筒美京平 (本名:渡辺栄吉)
1940年5月28日、 東京府東京市牛込区(現東京都新宿区)生まれ。
父は川口出身の鋳物屋。母は代々神田の江戸っ子、足袋屋の娘。
霊南坂幼稚園の頃からピアノを始める。青山学院初等部・青山学院中等部・高等部を経て青山学院大学経済学部卒業。
高校まではクラシックを目指す。
大学でジャズに転向し、軽音楽部で“スイング・コンボ”というバンドに加入。どちらかというと黒人のジャズよりも、デイブ・ブルーベックなどのクール・ジャズなんかの方が好きだった。アルバイトでたまに新橋や銀座のグランドキャバレーでピアノを弾いた。
作詞家、橋本淳は筒美の高校・大学時代のひとつ先輩。高校では筒美は園芸部、橋本は運動部。大学では同じ軽音楽部に。

1963年、日本グラモフォン(71年からポリドール、現在のユニバーサルミュージック)に入社。洋楽担当ディレクターとして勤務。
1965年9月、ジョニー・ティロットソンの「涙くんさよなら」(作詞・作曲:浜口庫之助 坂本九盤が同年5月15日発売)のディレクションを行ったのが作曲家への転機。

橋本淳から誘われ、当時橋本が作詞をやりながらアシスタントをしていたすぎやまこういちの家に作曲の勉強に通った。すぎやまはフジテレビのプロデューサーであると同時に作曲家だった。仕事の後、小平のすぎやま宅に行って、朝の3~4時まで曲を作ったりしながら、井の頭公園近くにある橋本の家で仮眠して仕事に行くという生活。

渡辺プロダクション、渡辺晋が、青春歌謡アイドルの望月浩を売り込むため、すぎやまこういちにフジテレビ「ザ・ヒットパレード」へのレギュラー出演を依頼。すぎやまは番組内で望月が歌うためのオリジナル楽曲の準備を進める。橋本は筒美とともに「黄色いレモン」を共作。それを聴いたすぎやまは採用を決定。ただ、すぎやまの弟子だった藤浩一にも歌わせることに(競作)。
1966年8月15日、藤浩一(のちの子門真人)「黄色いレモン」で作曲家デビュー。9月5日には望月浩盤がリリース。グラモフォンの上司?から名前を出したらクビになると言われ、当初クレジットは「作曲:すぎやまこういち」で発売された。

1967年4月、グラモフォンを退社。
筒美の叔父がペンネーム「鼓響平」を考える。日音の人が「筒美京平」の字を当てる。
 同年7月10日、弘田三枝子「渚のうわさ」リリース
  • 弘田三枝子「渚のうわさ」
    退社3ヶ月後の筒美京平に早くも初ヒット♪
1967年8月1日、ヴィレッジ・シンガーズ「バラ色の雲」(作詞:橋本淳/作曲:筒美京平)リリース。60万枚のヒット。
1968年12月25日、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」リリース。
  • いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」
    初のオリコン1位&初の日本レコード大賞作曲賞♪
  • 西田佐知子「くれないホテル」
    細野晴臣、松本隆、山下達郎らに絶賛されるも、本人は「売れなかった曲」
  • 黒沢明とロス・プリモス「ヘッド・ライト」
    演歌もいくつか手掛けてます。コーラス編曲が一味違う。
1971年3月5日、尾崎紀世彦「また逢う日まで」(作詞:阿久悠/作曲・編曲:筒美京平)リリース。
 同年12月31日、「また逢う日まで」が第13回日本レコード大賞と第2回日本歌謡大賞をダブル受賞。筒美にとっての初のレコード大賞の大賞。

*歴代作曲家で総売上枚数1位(7560万枚)。編曲家としても4位(3747万枚)(小室哲哉、船山基紀、萩田光雄に次ぐ)
  • 伊東ゆかり「誰も知らない」
    11歳でデビューした“ベテラン”伊東ゆかりに久々のヒットをプレゼント。
  • 岡崎友紀「私は忘れない」
    私にとっての筒美京平ベスト3の1曲。
  • 小林麻美「初恋のメロディー」
    あの「雨音はショパンの調べ」の12年前。小林麻美のデビュー曲。
*1972年が作曲家としてもっともレコード売上が多く、約650万枚。最高で月に45曲書いていたという。
*筒美京平語録
「自分の好きなものを創るんじゃなくてヒット曲を創る」
「心に沁みる歌を創りたいなんて思ったことは一度もない」
「新しい音楽を創るなんてことは考えてなかった」
「どうやったらヒットするかばかりを考えていた」
「日本芸能協会株式会社という会社に勤めていた」
  • 欧陽菲菲「恋の十字路」
    私にとっての筒美京平ベスト3の1曲(これで2曲目)。
  • 南沙織「傷つく世代」
    あまりにも有名な「レイラ」のテーマをうまく料理して聴き応えあるロック歌謡に。
  • 岩崎宏美「ロマンス」
    歌がうまい人にはそれを活かす曲を。京平さんの技♪
  • 太田裕美「恋愛遊戯」
    松本隆とのコンビで名曲揃いの太田裕美作品。
*筒美と松本隆のコンビの最初は、桑原一郎「谷間の百合」(1974年6月)だが、本格的には太田裕美のデビュー「雨だれ」(1974年11月)から。
*コンビを組んだ作詞家で最も多いのは橋本淳(550曲)、次いで松本隆(380曲)、阿久悠(120曲)
  • 桜田淳子「リップスティック」
    フィリー・ソウルのディスコ・サウンドはやっぱり京平さんだな。
1979年2月25日、ジュディ・オング「魅せられて」(作詞:阿木耀子/作曲・編曲:筒美京平)リリース。
 同年12月31日、第21回日本レコード大賞で、「魅せられて」が大賞を受賞。筒美にとっての2度目のレコード大賞・大賞。
*筒美は「この曲がアレンジャーとしては集大成」と語る。これ以上はもう新しいサウンドを追いかけていくことはできない、と以降は他のアレンジャーに依頼することが多くなる。
  • 小泉今日子「夜明けのMEW」
    3曲分のアイデアを詰め込んだような目まぐるしい楽しさ。
*井上陽水は怖くなかったけど、吉田拓郎の「結婚しようよ」(1971)が出てきた時は、「こりゃあたいへんだ」と思った。「やっぱり新しかったと思う」。
  • 井上陽水「カナディアン アコーデオン」
    拓郎が出てきた時は「こりゃあたいへんだ」と思ったが、陽水は怖くなかった京平さん。
  • 大橋純子「ペイパー・ムーン」
    京平さん、フュージョンでも名曲。
  • 桑名正博「哀愁トゥナイト」
    京平さん、ロックでも名曲。
  • 山下久美子「とりあえずニューヨーク」
    近田春夫とのコラボ。作詞と編曲が近田さん♪
  • Pizzicato Five「恋のルール・新しいルール」
    小西康陽も京平さんを敬愛。
2020年10月7日、誤嚥性肺炎のため東京都内の自宅で死去。80歳没。

次回の爆音アワーは・・・

                        
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