バイオグラフィ特別編【The WHO】

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偉大なるブリティッシュロックバンドを祭った神殿の、いわゆる聖なる三位一体において、whoはbeatlesとstonesに続く3番目の地位にあると言えよう。しかし、2バンドとは違い、whoは第2期ブリティッシュインヴェイジョンと呼ばれたムーヴメントの一部であった。
実際このバンドは'64年になるまで結成されておらず、1stシングル(“i'm the face”)も同年にリリースされている――そして彼らは、“i can't explain”とアンセム的な“my generation”を翌年にレコーディングするまで、イギリスでヒットを出すこともなかったのである。
 その後まもなく、短期間で録音したデビューアルバムをリリースしたが、それは'66年になるまで米国では発売されなかった(whoのリーダーであるpete townshendは、“i can't explain”を作曲するにあたって最初に影響を受けたのは、第1波ブリティッシュインヴェイジョンのkinksで、また“the kids are alright”は、bealtesとマージービートサウンドの影響抜きには考えられない、と常々コメントしている)。

バンドが米国でブレイクするのには随分時間を要した――彼らの初期のシングルはほとんどオンエアされることなく(彼らは最初のツアーの頃、herman's hermitsのオープニングを務めたこともある!)、'67年のmonterey pop festivalが米国で初めて注目されるきっかけとなった。彼らはエキサイティングなライヴの世界で、hendrixと良い勝負をして渡り合ったのである。
しかし、米国におけるメガトン級の成功をバンドにもたらしたのは、初のロックオペラ(これについてはkinksとpretty thingsから反論があるかも知れないが)と言われる『tommy』だった。続くwoodstockにおける伝説的なギグ(映画とサウンドトラックにフィーチャーされている)が、それをさらに引き立て、'70年代の半ばには、whoはスーパーグループに上り詰める。そして、その後もずっと、彼らは常にフットボールスタジアムをソールドアウトにしてきた。

バンドは当初townshendと、シンガー(当時はギタリストでもあった)のroger daltrey、ベーシストのjohn entwistle、そして、オリジナルドラマーのdoug sandonによって、detoursとして結成された。彼らはすぐに名前をhigh numbersに変更し、'60年代半ばの英国における、motownとr&b、ズートスーツとオートバイ、そして言うまでもなくアンフェタミンのヘヴィなドラッグによって活気づいた、ロックのサブカルチャーであるモッズムーヴメントの草分け的バンドの1つとなった。
あるギグの間に、keith moonという名前の酔っ払った若者がステージに飛び乗り、自分こそsandonよりもずっと優れたドラマーであると宣言、それをその場で証明した。whoと名前を改めたバンドは、そのすぐ後にdeccaでレコーディングを開始し、moonはロック史上最高のドラマーであることをやがて証明することになる。彼はコミカルで無秩序的な精神を備えた真の野人で、それは彼のパーカッションプレイを通して輝いていた。

whoは当初こそ、英国で多くのヒットを飛ばしたシングル中心のバンドであったが、townshendは既に2ndアルバム収録の“a quick one”という“ミニ・オペラ”的作品で、ロックのコンセプトものに対する興味を露にしていた。また、当時のトップ40ラジオをパロディ化した3rdアルバム『the who sell out』も、ある種のコンセプト作といえる。
しかし、彼らを伝説的バンドにならしめたのは、彼らのライヴショウであった。townshendは大きな鼻のせいで大変なコンプレックスを抱いていて(彼はギターを始めた理由を、これ以外に女性にモテる道はないと考えたからだと言ったこともある)、この問題は彼の音楽にも影響を及ぼし、ヘヴィなアグレッシヴさと10代の苦悩を組み合わせる役割を果たした。
ある晩、ロンドンのmarquee clubで、彼は自分のギターを粉々に砕き、バンドのメンバー達もそれに続いて自分達の楽器を破壊してしまったのである。これはwoodstock後まで彼らの“ショウ”の一部となり、長年に渡って模倣され続けている――最近のアーティストでステージ上で楽器を破壊したのはnirvanaであった。

『tommy』は彼らの名前を一般にまで広めたアルバムであった。だが、多くのファンはこの作品をwhoの終焉の始まりと見ている。少なくとも、頭でっかちで作り込み不足のコンセプトという見方である。しかし、『tommy』を別の関連で考え、新しい“芸術形態”の1つとして'60年代のロックの概念につけ加えるべきものという見方をする人達もいた。バンドはニューヨークのmetropolitan opera劇場にて、この“オペラ”をライヴで披露している。次に計画された作品――『lifehouse』というタイトルで、組織化された宗教に関するtownshendの論説だった――は悲惨な結果に終わり中止となったが、その中のベストトラックの幾つかは、彼らの最高傑作と思われる『who's next』に収録された。

しかし時の経過と共に、かつて「年を取る前に死にたいと思う」と自ら綴った男は、ユーモアのセンスを失って、実際よりも年を取ったように見受けられ、今では重くのしかかる若気の至りの一文を、かつての自分はなぜ書いてしまったのか、延々と説明しようとしていた。『quadrophenia』もまたロックオペラで、モッズ時代がテーマになっていた。しかし、whoの作品は時と共に弱っていき、ついに『who are you』が、オリジナルラインナップをフィーチャーした最後のアルバムとなってしまう。moonがアルコール中毒(長年の過剰摂取)により'78年9月に亡くなったのだ。

moonがグループの魅力と精神の重要な部分を占めていたことを思えば、この時点で解散していた方がwhoにとって賢明であっただろう。だが、残念ながら彼らは活動を続け――さらに2枚のスタジオアルバムをリリースし、何度かツアーも行なった――元facesのドラマーkenny jones(彼も初期モッズ時代のパーカニッショニストである)が故ドラマーの穴を埋めたのである。
しかし、アルバムとツアーは惨憺たるものだった。以来、残った3人のメンバーは何度も再結成ショウを行なったが、それは回を重ねる毎に悪化していった。最近では『quadrophenia』の全内容をフィーチャーしたツアーを行ない、ノスタルジアを売り物にしていた(明らかにtownshendはブロードウエイのミュージカルとして、数年前に『tommy』を行なったように、この『quadrophenia』をプロデュースしたいという目論みがあったのである)。
長年に渡って文字通り記録的な音量で演奏してきたために、townshendは聴覚障害に悩まされており、今ではステージでアコースティックギターをつまびくだけ――その時点でwhoは、彼らの驚くべき伝説に全く相応しくない、ただの年寄り集団にしか見えなくなってしまった。パンクとヘヴィメタルの両方に多大な影響を及ぼしながら、パンク全盛期には、ビッグになり過ぎの年寄りロック戦闘馬の1つだと攻撃された。
しかし、彼らは素晴らしいドキュメンタリー『the kids are alright』(そして、そのサウンドトラックアルバム)でもって、ロック史上最高のバンドの1つであることを批評家達に証明したのである。

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