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ギャヴィン・デグロウのJレコーズ・デビューとなるアルバム「チャリオット」は、NYのクラブ・シーンでは良く知られた彼の豊富な才能とカリスマ性を、世界へ向けて初めて紹介するものです。11曲を収録したこのアルバムは彼が初めて成し遂げた取り組みであり、地元のファンたちを魅了してきたこのアーティスト(シンガー/ソングライター/ピアニスト/ギタリストとして)の、生きた感情と素晴らしい技のコンビネーションとを提示しています。

感情の爆発ともいえる情熱的なライヴ・パフォーマンスで、きわめて短い間にマンハッタンのダウンタウン・ミュージック・シーンで話題となったギャヴィン。初のスタジオ・アルバムとなる「チャリオット」は、決してその期待を裏切ることはないでしょう。「ジャスト・フレンズ」、「クラッシュ」、「フォロー・スルー」といった率直な感情と印象的なメロディを併せ持つオリジナル曲で表現されている通り、彼の年齢以上の深い洞察力で人生と愛を掘り下げる歌詞を書き、そして彼の特徴でもある情感のこもったやさしくかすれ気味の声で、愛の高揚と悲しみの傷を歌っているのです。

そんなギャヴィン・デグロウは、常に音楽と共に人生を歩んできました。NY北部のキャッツキル山地で音楽一家の息子として生まれた彼は、音楽というものを遠い世界のショー・ビジネスとしてでなく、日常生活の一部として捉えるよう育てられたのです。8歳で歌とピアノを始め、ティーンエイジャーのころにはレイ・チャールズとサム・クックに夢中になったのですが、彼らの人間的魅力とエモーショナルな歌のコンビネーションには特別なひらめきがあったとのことです。

そのティーン時代、ギャヴィンは兄のジョーイとカヴァー・バンドでプレイし、兄の要請で初めて曲作りを試みてもいます。その後、音楽の奨学金でイサカ・カレッジへ進んだのですが、授業に出席するよりも寮で歌を作っている時間の方が長く、大学を辞めてしまったのです。それからボストンへ行き、ソロのギグを行ったりロック・バンドで歌ったりしながら、有名なバークリー音楽学校へ通い始めました。しかしそこでも組織化された教育制度による不自由さを感じた彼は、1年後にはバークリーを離れて故郷へ戻り、肉体労働をしながらNYCへ行く計画をたてていました。

そして1998年にマンハッタンへと移り、すぐさま行動を開始、土台となるキャリアを徐々に築き上げたのでした。

「小さな成功と呼べることはいくつもあったよ」と、彼は当時を思い起こして話します。「それは少ないオーディエンスたちから喝采されたり、ぼくのことを耳にしたことがあると人に言われたりしたことだ。ぼくにとってはそういった小さな事柄こそ続けて行くエネルギーになったし、正しい道を進んでいるのだと感じさせてもくれたんだ。」

NYCに移り住んでから数ヵ月も経たぬ間に、ウィルソンズ(アッパー・ウェストにある有名なボールルーム)でのオ-プン・マイク・ナイトに潜り込んだギャヴィンは、オーディエンスを圧倒し、翌日クラブのオーナーであるデビー・ウィルソンとマネージャー契約を結びます。この才能溢れるニューカマーの存在はあっという間にNYのミュージック・シーンに広まり、パフォーマンスの質の高さもそのざわめきを盛り立てるのに一役かったのです。ピアノでのソロとロック・バンドのギタリストを交互に行ないながら、サム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」やマーヴィン・ゲイの「レッツ・ゲット・イット・オン」、レナード・コーヘンの「ハレルヤ」といったクラシックのカヴァー曲と共に、ギャヴィンは非常に印象的なオリジナル曲を増やして行きます。

「初めてギャヴィンのパフォーマンスを見たとき、それは最初に彼が歌った「モア・ザン・エニイワン」の後だったが、私はデビー(彼のマネージャー)に向かって、今すぐ彼と契約したい、と言ったんだ」と語るのはワーナー・チャペルのA&Rのシニア・ディレクターであるRandy Sabiston。

「ギャヴィンは本当に特別なソングライターであり、出版側として私は決断を検討する必要などなかった。すぐに決めてしまったんだ」

まもなくギャヴィンはメジャー・レーベルのオファーを受けたのですが、あからさまな誘惑に負けることなく申し出を断り、ニューススタンドの店員やウェイターで家賃を稼ぎながら、ソングライター/パフォーマーとしての自分を磨き続けていったのです。評判は膨れ上がりオーディエンスも増え続け、彼は次第にアーヴィング・プラザ(Jonatha Brookeのためにスペシャル・ヴァレンタイン・デイ・ライヴを行った)のように、より大きな場所でライヴを行うようになっていきます。そして最終的に業界大手のワーナー/チャペルと出版契約を結び、ウィルソンズでのステージを録音した「ギャヴィン・ライヴ」という6曲入りのインディーCDをリリースしたのでした。

2002年の春にNYのジョーズ・パブで行った満員のショーケースに続いて、ギャヴィンはJレコーズと契約し、プロデューサーのMark Endert(フィオナ・アップル、トニック・アンド・アワーズを手掛ける)と「チャリオット」の制作を始める。ホームグランドのイースト・ヴィレッジを遠く離れ、LAのサンセット・サウンド・スタジオで行ったレコーディングでは、ギターにMichael Ward(ウォールフラワーズ、ジョン・ハイアット)、ドラムスにJoey Waronker(ベック、REM)、そしてベースにギャヴィン自身の長年の仲間であるAlvin Moodyを加えた堅実で創造力に富んだスタジオ・バンドが脇をかためたのです。

「チャリオット」の持つテーマと奥行きは、ギャヴィンのアーティストとしてのアイデンティティの明確なビジョンを表現しています。

「流行に乗るよりも、時代を超越したものをクリエイトしたかった。ぼくにとって大切なのは、決して使い捨てにはならないサウンドの確立だったんだ。あまりにきらびやかな輝きは欲しいと思わなかったよ。」

また、ライヴ・ステージでの日々からレコーディング・スタジオへの移行は、ギャヴィンにとって、別の見方で自身の制作物を見ることを可能にさせた学びの多いプロセスでもあったのです。

「レコード制作のやり方について、違う見方ができるようになったんだ。」と彼は言う。「最初、僕は何だか場違いなような気がしたんだ。まずはレコーディングを行う上での専門用語や技術を覚えなくてはならなかったからね。それは本当の意味でのプロセスだ。ぼくらはアルバムに息を吹き込むよう、一生懸命取り組んだよ。」

ギャヴィンは今現在自分を取巻いているざわめきから視線をそらし、冷静に全体像に目を向けているのです。
「不適切な理由で人々に好かれる事には興味がない。ぼくが関心を持っているのは、そこから何かポジティブなものを得る事。願わくば、この作品の誠実さに人々が気づいてくれて、それに答えてくれたらいいと思う。みんなが言うからクールに違いないなんて感じてくれるよりはね。ぼくの音楽を聴いたときにみんながどんな気持ちなるのか、ということでぼくは判断されたいのさ。歌を書き、プレイし、人々と繋がりを作る、こういったことが、次世代の大物アーティストになろうとトライすることよりも、ぼくにはもっと意味のあることだから」

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