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Def Leppardのキャリアは常に悲劇と困難につきまとわれてきた。だが、それでも彼らは決してバンドを続けることを諦めず、その不運に意欲や信念をそがれることはなかった。

ブリティッシュ・ハードロックバンド、Def Leppardが最初にPhonogram(U.K.)とMercury(U.S.)とレコード契約を交わしたのは''79年。彼らは現在も同じレーベルに所属している。''80年に1stアルバム『On Through The Night』をリリースし、Leppardはシングル“Hello America”“Rock Brigade”でアメリカに売り込みをかける。続いて''81年、プロデューサーであり実質的な6番目のバンド・メンバーとなるRobert John“Mutt”Langとタッグを組んで『High And Dry』をリリース、このアルバムからは“Bringing On The Heartbreak”というマイナー・ヒットが生まれた。

そして、''83年、彼らはアルバム『Pyromania』でケタ外れの大ブレイクを果たす。“Photograph”“Foolin''”のシングル・ヒットにも後押しされて、このアルバムは1年の大半で週10万枚を売り上げ、最終的には全米で700万枚を超えるセールスを記録する。またバンドはこの年初めてヘッドライナーとして大規模なワールド・ツアーを行なった。

だがその翌年、衝撃的な悲劇が彼らを襲う。''84年12月31日、ドラマーのRick Allenの車がスピードの出し過ぎからクラッシュし、この事故で彼は左腕を付け根から切断されてしまったのである。懸命の処置もむなしく、彼の腕は元通りにはならなかった。

大抵のバンドなら恐らくここでそのキャリアを断つことを余儀なくされたに違いない。しかし、Allenはエレクトロニック・キットを導入して片腕でドラムを叩く術を身につけ、バンドは次作のレコーディングに取りかかる。アルバム『Hysteria』がリリースされたのは、ようやく''87年になってからのことだった。そして、このアルバムが、何ととてつもないモンスター・ヒットに発展する。結果的にはここから7枚のヒットシングルが生まれ、アメリカだけで1000万枚を超えるセールスを記録したのである。

では、ここからLeppardの運は再び一気に上昇に向かったのだろうか?
残念ながらそうではなかった。''91年1月、リード・ギタリストでありオリジナル・メンバーの1人だったSteve Clarkが、バンドの5枚目のアルバムのレコーディングの最中に、アルコール中毒で生命を落としてしまうのだ。

だが驚くなかれ、ショウはまだ続くのである。バンドは4ピースでレコーディングを続け、やがてVivian Campbell(Whitesnake, Dio)の才能に目をつける。Campbellは正式にバンドのメンバーとして迎えられ、彼らは''92年、ウェンブリー・スタジアムで行なわれたFreddy Mercury追悼コンサートで、新ラインナップの御披露目を行なった。

Def Leppardは''92年に『Adrenalize』をリリース。全米チャートに第1位で初登場して5週間首位を続け、彼らにとって最高の売り上げを記録したアルバムとなった。''93年には『Retro Active』(過去10年間に発表されたアルバム未収録曲を集めた作品)がリリースされ、プラチナディスクを獲得する。そして、''95年のグレイテストヒッツ・アルバム『Vault-Greatest Hits 1980-1995』に続き、''96年には『Slang』を発表。このアルバムはバンドのこれまでの作品と比べれば大きな成功を収めたとは言えないが、ともあれ外野が何と言おうと、Def Leppardが乗り越えて来た過酷な運命の試練を思えば、彼らが現在もバンドを続けていることに対しては最高の賛辞が贈られてしかるべきだろう。''99年『Euphoria』の往年のDef Leppardサウンドの素晴らしき再燃もしかり。何しろ彼らは生還しただけでなく、困難に立ち向かう度、見事にその勢いを盛り返しているのだから。

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