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ジョージア州アセンズは、R.E.M.を輩出したことで知られ、近年はアメリカン・インディ・音響系ポップの拠点のひとつとして注目されている学生街である。

この街の音楽シーンは、このThe B-52'sの出現によって形成されたと言っても過言ではない。'70年代半ば過ぎ、“パーティ・テロリスト”(派手な格好でパーティに潜り込み、飲み食い大騒ぎする集団)として有名だったシンディ・ウィルソン/Cindy Wilsonと彼女の兄リッキー/Ricky Wilson、キース・ストリックランド/Keith Strickland、ケイト・ピアソン/Kate Pierson、フレッド・シュナイダー/Fred Schneiderの5人は、ある晩中華料理を食べながら酒の勢いでバンド結成を決めた。バンド名は、女の子の大きく膨らませた髪形を意味する地元のスラングにちなんでいるという。

'77年、アセンズで開かれたヴァレンタインデイ・パーティのステージでデビューを飾った彼らは、ライヴを重ねていく。そして、年末に地元の大学で行なわれたパーティ(主催者は、当時その大学の学生だった現R.E.M.のピーター・バック/Peter Buck)には、B-52'sの演奏をひと目見ようと学生達が押しかけるほどの人気を得ていった。

'78年、地元のインディ・レーベルDBレコーズからデビュー・シングル「ロック・ロブスター」をリリースする頃には、活動の場をニューヨークにまで広げていた彼らは、そこでメジャー・レーベルの目にとまりレコード契約を獲得。バンドはアセンズを離れニューヨークに拠点を移し、'79年デビュー・アルバム『B-52's来襲』を発表。シングル「ロック・ロブスター」が全米で大ヒットする。'80年、セカンド・アルバム『禁断の惑星』発表。'82年発表のミニ・アルバム『メソポタミア』では、デヴィッド・バーン /David Byrne(トーキング・ヘッズ)をプロデューサーに迎えるなどして、ニュー・ウェイヴ人脈との交流も深めていく。

'83年にサード作『ワーミィ・ワーミィ』を発表し、順調に活動を続けていた彼らだったが、'85年、アルバム・レコーディング中にリッキーがエイズで他界するという悲しみがバンドを襲う。'86年にはリッキーの遺作となった『バウンシング・オブ・ザ・サテライツ』をなんとかリリースするが、その後は一時活動を休止。解散や引退まで考えたという。しかし、リッキーの分まで4人で頑張ってバンドは続行させようと、'88年に活動再開(以降、エイズ関係のチャリティなどには積極的に参加。基金も設立)。

そして'89年にリリースされたのが『コズミック・シング』だ。ナイル・ロジャース/Nile Rodgers(シック)とドン・ウォズ/Don Wasをプロデューサーに迎えた本作からは、「ラヴ・シャック」「デッドビート・クラブ」「ローム」などのシングル・ヒットが生まれ、アルバムも全米チャート最高位3位を記録、売り上げは400万枚を超えた。

'90年には75万人の観客を集めたアース・デイのイヴェントに参加するが、その後シンディが脱退を表明、友好的にバンドを去る。'92年、再びナイル・ロジャースとドン・ウォズを迎えた『グッド・スタッフ』を発表。2000年春時点では、これがB-52'sの最新スタジオ・アルバムになっている。

'90年代半ばくらいからは、フレッドがソロ作を発表するなど、バンドよりも個人の活動の方が目立っていたが、'98年にはシンディが復帰し、ベスト盤『タイム・カプセル~ベスト・オブ・B-52's』のために2曲の新曲をレコーディング、また全米ツアーも大成功のうちに終わらせている。“生涯一ダンス・バンド”を公言している彼らだが、その言葉通りに、ノリがよくて軽妙で、どこかユーモラスでストレンジなダンス・ポップ・ロックを貫いている。シンディとケイトのド派手なメイクと衣装もデビュー当時から変わらず、フレッドの怪しいキャラクターも健在である。音楽性もひっくるめたバンドの存在すべてがユニークで奇抜で独創的な彼らの真似は、誰にもできない。

ちなみにケイト、昨年はJUDY&MARYのYukiを中心に結成されたプロジェクトNinaに参加、「Happy Tomorrow」などのヒットを飛ばしている。