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プログレッシヴロックの真髄というべきイギリスのバンドYesは、程度の越え方も栄光も桁外れだった。1つのバンドが抱え込むには過剰な演奏技術とアイデアを持ち、メンバーチェンジを何度も繰り返しながら、彼らがたどってきた20年の経歴の中には、もちろん感心しないアルバムもある。しかし全盛期(''70年の『The Yes Album』から''77年の『Going For The One』まで)のYesは、絶え間なく神の啓示を受けているかのようだった。

プログレッシヴロックの正当性を証するには、『Close To The Edge』(''72年)の片面全部を占めるタイトル曲を聞くだけでいい。無我の境地で繰り広げられる演奏と壮大なメロディーにかけて、これをしのぐものはまずない。

ただのポップグループとして出発したYesは、いつしか限りなく大がかりなサウンドを追い求めるようになった。最初の2枚のアルバムにはR&Bの影響も見られる。これはギターのPeter BanksとキーボードのTony Kayeのベーシックなスタイルに負うものだったが、この2人は早い時期に脱退する。

初期の彼らを特徴づけていたのは、シンガーJon Andersonの繊細で女性的な声と、ジャズの影響を受けたリズムセクション(ベースのChris SquireとドラムスのBill Bruford。''72年にはドラマーがロック色の強いAlan Whiteに代わる)だった。ギタリストのSteve Howeとキーボード奏者Rick Wakemanの加入により、念願のロックシンフォニー的手法をとることが可能になると、Yesは思いのままに突き進む。その意欲が頂点に達したのが、''73年の『Tales From Topographic Oceans』だった。歌詞の密な4曲で構成されたダブルアルバムで、Wakemanでさえやりすぎだと感じた(彼はこの後バンドを離れ、ソロアルバムの制作にあたる。後任はPatrick Moraz)ほどだが、それが功を奏した部分も少なくない。

1年後、Wakemanとよりを戻したYesは、余計なものを削ぎ落として基本に立ち返り、最後の名作『Going For The One』を''77年にリリース。以後はラインナップが固定せず、無理もないことだが長年の活動で息切れして、かつての成功からはすっかり遠ざかっている。

AndersonとWakemanが''79年に脱退すると、代わってBugglesの2人がバンドに参加するが、このメンバーで作ったアルバム『Drama』は大失敗に終わり、Yesは活動を休止。''83年にはAnderson、Kaye、Squire、Whiteが、ギタリストでシンガーのTrevor Rabinを迎えてニューラインナップを組む。

当初はメインストリーム受けするRabinの手腕に救われ、''83年の『90125』は音楽面もセールスもまずまずのアルバムになった。しかし往年のスケールの大きさは影をひそめ、すべてが規格内に収まっているという感を否めず、Yesのサウンドは平凡なものになってしまった。

反旗をひるがえしたAndersonは本家に対抗するべく、他の元メンバーを誘って、その名もAnderson, Wakeman, Bruford, Howe(AWBH)というグループを結成するが、オーヴァープロデュースとマテリアルの不出来がたたって、この試みも失敗。さらに彼らは、AWBHの未完成デモと、Rabinの未発表曲を合わせた代物を、Yesのアルバム『Union』としてリリースし、これに乗じて8人編成のラインナップでリユニオンツアーを行う。ここに至っては、Yesも落ちるところまで落ちたと思わせた。

そんな彼らがかろうじてカムバックを果たしたのが、『Topographic Oceans』時のメンバーが再結集した''96年の『Keys To Ascension』だ。埋もれていた過去のライヴに、予想外に充実したスタジオ録音の新曲(合計30分におよぶ2曲で、久々の大作)を足したアルバムだった。すでにレコーディングを完了していた次のスタジオ盤は、一段といい内容になったという話だが、''97年にまたもやWakemanが抜けたため、結局発表されずじまいだった。もっとも、浮き沈みには慣れっこになっている筋金入りのYesファンなら、こんなことくらいではびくともしないに違いない。

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